猫を起こさないように
日: <span>2005年11月16日</span>
日: 2005年11月16日

永遠と一日

学生時代、この微温的な、あるいは苛烈な日常が永遠に続くのではないかと貴方は錯覚したはずだ。しかし、終わりの一日はやってきた。この世のすべては永遠と一日から出来ている。貴方が倦み疲れている永遠も、避けられぬ一日によって必ず終焉を迎える。なぜなら、人は死を運命づけられているからだ。

今日、ホームページ上に新しい掲示板を設置した。これは永遠の始まりであるが、一週間後か、一ヶ月後か、一年後か、定められた終わりの一日がいつ訪れるのかを言うことは誰にもできない。もし、ある日突然、私のホームページがネット上に存在しなくなったら、この日記を思い出して欲しい。私は永遠を更新し続けるが、それは裏を返せば、終わりの一日を待つために過ぎないのだということを。

「生きながら萌えゲーに葬られ」を更新した。もはや最終話を残すのみである。

生きながら萌えゲーに葬られ(9)

 何かを批判したり批評したりする態度だけをとり続けることを選択すれば、永遠の生命を生きることが出来ると思っていた。新聞というメディアが現実に依拠することで永遠を存続できるように、誰かの作り出した何かに依拠し続ければ、自分は存在を長らえることができるだろうと考えていた。後から後から、尽きせぬ生命の流れが生み出す世代のせり上がりから汲み続ければ、この精神は永遠を持続し、きっと死なないだろうとどこかで信じていた。もし肉体の不滅を仮定するならば、果たして人の心はそうやって永遠をながらえることができるのだろうか。おそらく、他の善良な人たちが当たり前にするようには、自分はこの命を次の誰かへと手渡すことはできないだろう。個の不滅――こんな馬鹿げた問いにすがるような思考を繰り返すのは、萌えゲーを愛好し、人のするそれ以外のすべての営為に冷笑的、虚無的な態度をとり続けながらその実、心の奥底ではこの命が継続しないことが寂しいからか。命ではないものを残すために、ずっと誰かを傷つけ続けるのか。自分以外への愛で命を継続させることができないから、ただ悪罵を繰り返し、他人の傷の中へ蛆のように憎悪の卵を残そうとするのか。
 クラクションの音に、我へかえる。見れば、信号はすでに青へと変わっていた。アクセルを踏み込むと車はするすると前進を始め、上田保春はまた元のように大きな流れの一部となった。上田保春は、車を運転することを愛好した。車を運転するときには、まるで自分がまっとうな人間であるかのような錯覚が生じ、それを信じる瞬間を持てるからだ。車の流れに乗り、交通法規を守ってさえいれば、誰もが上田保春を正常とみなしてくれる。先のクラクションのように、異常な行動はすぐにそれと警告され、すぐに正しい場所へと帰ることができる。車の運転は、上田保春の迷いに満ちた日常生活の中において、自分であることを意識せず自動的に行うことのできるほとんど唯一の行為だったと言っていい。そこには何の葛藤も複雑さもなく、あるとすれば高級車に道をゆずり、軽自動車にクラクションを鳴らすくらいのもので、彼は車を走らせるとき、安逸な心持ちを抱くことさえできた。自然を装った不安定な言動ではなく、車のフレームが外殻として彼を無条件に規定してくれるのだ。その意味では上田保春を安らわせる理由の大半は、子宮回帰願望という言葉で説明できただろう。移動する全能感である。そして、上田保春は車の運転を愛好するものの、その種類や手入れに重要性を見いだす生粋のカーマニアというわけでは無かった。彼が愛好するのは運転であって、車そのものではなかったからだ。現在乗っている車を購入する際に求めた基準は二つ、外観の凡庸さと気密性の高さである。シルバーのファミリーカーという外観は、彼が車の運転に求めているものを考えれば自然と首肯できると思うが、気密性については少し説明が必要であろう。上田保春は車の運転中、萌えゲーのテーマソングを聴くことを習慣としていた。気密性の高さとは、外界との遮蔽率の高さということであり、車内での物音を少しも漏らさぬことが上田保春にとって肝要であった。なぜなら、萌えゲーのテーマソングを大音量で流しているのが車外へ少しでも漏れたりしようものなら、それは身の破滅につながるからである。世間へ薄壁一枚をしか隔てぬ自室よりは、車内の方がはるかに萌えゲーのテーマソングを流す場としてはふさわしい。外耳全体を覆う例のヘッドフォンをはめればと思われるかも知れないが、ガスの元栓を閉めても閉めぬと告げる上田保春の意識は、プラグの先端がちゃんとコンポないしパソコンに接続されているのかどうか、少しでも音漏れしていないかどうかを何度も確認しないでは済まず、結果として曲を聴くことに少しも集中できないのである。何を音楽くらいで神経質なことを言うのかと上田保春の抱える不安を軽視する態度を取る向きは、説明を求めるより萌えゲーのテーマソングを一度でいい、試聴してみるとよい。日常はおろか、現実の秘めごとの最中でさえめったやたらとは聞かれぬような猥褻な言辞が登場すること頻繁なのだ。例えそれが登場しないような場合でさえ、脳言語野に疾患を持っているとしか思えぬような日常を不安にさせる作詞や、白痴少女としか形容できぬ甲高い裏声で絶叫する三十路を越えた女性ボーカルなど、人間社会が普段は秘し隠している何かをしか、それらの楽曲は内包していないのである。しかしながら、そういう曲を試聴しようという態度自体がもぐり酒場の密造酒のような危険を社会的に身の上へもたらすこともまた確かなので、蛇足とは理解しながらあえて内容についての解説を少し付け加えたい。想像して欲しい。「子ども時代、暖かな夜の大気を泳ぐように楽しげな音曲に誘われて行けば巨大なテント、サーカスショウだと思い天幕のすそを持ち上げて覗くと、中で行われていたのはフリークスショウだった」。この情景を思い描いてもらえば、最も実際に近い感じを得ることができるだろう。
 ともあれ、車の運転が上田保春の人生に意味するところは理解されたと思うが、そんな彼の安逸や全能感も助手席に母を、後部座席に祖母を伴っていないときに限られた。上田保春はもう何度目だろうか、確かにCDや萌えゲーのグッズをすべて自室に置いてきたはずだという確認を反芻し、信号で停車する毎に自然な素振りを装って車内の隅々へと視線を走らせる。横目でちらりと助手席に座る母を見、上田保春は子宮の中に母がいるというメビウスの輪のような裏返しの目眩に襲われかけ、そっと首を振った。母が自分の車に乗っているという感覚は、何度経験しても慣れることはない。バックミラーをのぞくと、そこには祖母がいる。祖母はシートベルトをつけたまま正座をして、ただ真っ直ぐに正面を見据えていた。皺に埋もれたその目をのぞきこんでも、祖母が本当に正気を取り戻しているのかどうか、上田保春には判断できなかった。施設で車に乗り込んでからというもの、母の言葉に相づちを返すばかりで、祖母は自分から一言も口をきいていない。祖母は自身の感慨へと深くとらわれているようであり、後部座席という近くにいながら上田保春の焦燥や期待とははるかに遠い場所で正座をしているのだった。
まるで姥捨てのようで、と母は表現した。優しさや思いやりの気持ちが他者の生に干渉し得ると信じているようなところが母にはあった。おそらくこの発言も、祖母を翻心させられなかった自分を悔いてのものに違いない。恍惚から醒めた祖母は母の説得に最後まで私が死ぬ場所はあそこしかないと言って譲らなかったのだそうである。またいつ元のような忘却と過去の住人へと引き戻されてしまうのか、誰にも知ることはできない。祖母の中で何かが改善したのを信じられるほど、上田保春は楽観的であれなかった。もしかすれば、死の直前の人間に訪れる明晰さというものなのかも知れない。医者は母に、昔馴染んだ場所での生活はむしろ良い刺激を与えるだろうとアドバイスをした。百歳をとうに越えた人間への良い刺激という言葉、それが母の精神に与える善の効果をねらったのではなく、本当に祖母のことを考えてのものだとしたら、いったいその中身は何だというのだろう。上田保春には全く見当もつかなかった。幹線道路をそれ、蛇のようにうねった山道を車はゆっくりと登ってゆく。ときどきやってくる対向車へ舗装の無い脇道に待避しなければならないほど、山あいを行く道路は狭かった。ひとつカーブを抜けるたびに、車外にたちこめる白い霧は濃度を増していくようだ。視界が開け、突然現れたガードレールの先に眼下を一望することができる。霧は通り抜けてきた山の底へ渦を巻いて溜まってゆくようだ。やがて霧と陽光との境界を背後に走り抜けると、山の斜面へ張りつくように点々と民家の群れが見えた。ゆるゆると速度を落とし、藁葺き屋根の一軒家をのぞむ道路脇へと停車する。その前庭へと土を踏み固めただけの細い道が続いていた。母と祖母を車からおろし、荷物を抱えて道を下る。きしむ玄関の引き戸をこじ開けると、入り口部分は土間になっていた。薄暗い室内に、締め切られた雨戸を順に引き開ける。すると眼前へ、少年時代に見た懐かしい光景が広がった。
 山の頂上付近から降りてきて、屋内にまでわんわんと反響する蝉の声の連なりは、上田保春に蝉時雨という言葉を思い出させた。ふと眼をやった先、庭に自生するほおずきの葉の裏側に蝉の抜け殻が見えた。上田保春はなぜか胸の奥に痛みを感じた。振り返ると、陽光に照らされた室内は想像していた荒廃とは遠い様子だった。祖母の荷をほどきながら母が言うには、田舎暮らしを求める都会からの移住者に去年の暮れまで貸し出していたとのことだった。もっとも、こんな山間での暮らしが合わなかったのか、一年ほどですぐに出ていったらしい。祖母はしばらくの間、何かを確かめるように一部屋一部屋を見て回っていたが、やがて小さくうなずくと寝具を屋根裏へ上げて欲しいと上田保春に求めた。押入れから取りだした布団は冷たく固くなっており、日干しが必要ではないかと尋ねるが、祖母は再び強い調子で彼を促した。梯子とも階段ともつかぬ傾斜を登り、天井にはめられた板を押し上げて覗いた屋根裏はひんやりとしており、隅には行李のようなものが積み上げられている。壁の合わせ目と、明かりとり目的だろうか、窓とも呼べぬ木枠の隙間から陽光がこぼれてきているだけで、周囲は薄暗かった。祖母は四つん這いになりながら上田保春の後ろに従うと、屋根裏の中央に老人のするゆるやかさで布団を敷き、ようやくといった感じで満足げに腰を下ろした。母は階下で家の様子を調べ、どうやら買い物のリストを作成しているようだった。上田保春は村の中を巡りながら少年時代の記憶を追体験することも考えたが、それは真実に目を向けたくないがゆえの怯懦、逃避に過ぎぬと思い直し、祖母の前へ決然と座り込んだ。目の前に小さく、小さく、内側へと固まってゆくように思える祖母の身体がある。久しぶりに会うのに、今日は私のことだけでこんな迷惑をかけてすまない、という意味のことを祖母は昔人の語彙で言った。その様子からすれば、施設で会ったことはどうやら祖母の記憶に残っていないようだった。上田保春は内心胸をなでおろす。そのとき彼が抱いた感情は、良質な萌えゲーをプレイするときに感じるのと同じ、ただちにこのキャラクターと性交をしたい、より正確に言うなら彼女のする痴態を眺めながら自慰をしたいが、永遠に射精の昂ぶりを先送りにしてもいたいという、あの理に合わぬ逡巡だった。
 ふいに蝉時雨が途切れる。木枠の外へのぞく景色へ向けた視線を戻すと、皺の底で祖母が大きく目を見開いている。祖母の目は理性の色を宿しており、いまこそ彼女の意識は完全に現在と一致しているように見えた。上田保春は、その時が何者かの手によってここに用意されたのだと知った。中学生だった頃、私はあなたにひどく怒られたことがあった。あのときのことを覚えているだろうか。祖母は、為された問いの意味が身体の底へ降りてゆくのをじっと待っているように見えた。そして、歯の無い口腔にのぞく黒い奈落の底から、震える祖母の唇は驚くほど明瞭に言葉を紡ぎだし始めた。上田保春は全身を固く緊張させ、息を詰めて聞き入る。もはや、みじろぎすることさえかなわぬ。現実とつながった祖母の回廊が真実の瞬間を迎える前に、またどこか遠くへ離れていってしまうことを彼はただひたすら恐れたのである。上田保春は自分が求め続けてきた究極の真相に、もはや紙一枚の距離で肉迫しているのを感じていた。なぜ、二次元を愛好する我々への人々の嫌悪は自動的なのか。なぜ、自分は萌えゲーおたくであるのか。余人から見れば何をつまらぬと鼻で笑われるのかも知れぬ。例えば飢えた子どもの苦しみの前で、全く有効ではない言辞に過ぎないのかも知れぬ。人類全体にとっては何を成すこともない戯れ言の類なのかも知れぬ。だが、総論が個人を救うことはない。救済は常に個別的に行われなければならないものであり、これは上田保春が求める救済であった。
 祖母がしたのは、ある昔語りだった。あるいは物語に寄せた、彼女自身の罪の告白だったのか。ほとんど廃村のような有り様になっているが、かつては多くの人々が生活したこの村にある兄妹がいた。二人は血こそつながっていたが、本来の意味での兄妹ではなかった。互いに、男と女のように想いを寄せ合っていたのである。愛する相手と一番近い場所で生活を共にするという幸福。彼と彼女の一挙手一投足、そして笑顔は言うまでもない、悲しみや怒りさえもが、喜びへと変わるふしぎ。しかし二人しか知らぬ密やかな蜜月は、やがて終わりを迎える。ある夜、兄は無理やりに、妹へ妹自身の秘した想いを認めさせたのだ。妹は兄の行為に恐怖したが、それを上回る強い衝動に気づかされる。そして気づいてしまうと、もう止めることはできなくなった。毎夜のように同じ屋根の下に繰り返される逢瀬。しかし、二人の関係が両親へと露見するのに、長い時間はかからなかった。生活を相互依存によってしか成立させることのできない山あいに隔離された村は、強力な観念共同体である。同質性を維持することこそが、最も確率の高い生物学的存続の可能性であることを、構成員全員が暗黙知として了解しているのだ。二人はただちに引き離され、不貞の妹は屋根裏へと閉じこめられた。それでもなお、兄は何度か周囲の目を盗んで妹を訪れた。しかし、ある日を境に兄はやってこなくなる。妹が屋根裏から出ることを許されたのは、その直後だった。兄は村からいなくなっていた。誰にその消息を尋ねても、答えは得られなかった。おそらく村人の手によって始末されたのだろうと上田保春は思う。祖母がその可能性を考えなかったわけはない。しかし目の前の、少女のように細く年老いた老婆は、夢見るようなまなざしで言うのだ。ここで待ってさえいれば、兄はきっとあそこから私の元へ会いに来てくれる。ゆっくりと震える手をあげた祖母の指さす先には、木枠の狭い隙間が開いていた。死人が深夜、あの隙間から身をよじり入れて逢い引きに寝屋を訪れる。その想像はまるでホラー映画のようで、上田保春は背筋に寒気を生じた。けれど、それを狂った老人の妄念と断ずることはできなかった。上田保春が希求する、この世にはいないはずの萌えゲーの少女を現実に見る破滅も祖母の願いと同じことなのではないか。もし兄を現実に見ることができたのなら、祖母の魂は幸福のうちに終わることができるのかも知れぬ。一世紀に渡る歳月を生き、その途方もない魂の摩耗の果て、最後に祖母の中へ残ったのはただひとつ、実の兄への恋慕だけだった。上田保春は孫としてこの話を聞かされているのではないような気がした。祖母は誰に話しかけているのだろう。神へか、懺悔の聴聞僧へか、それとも兄へか。しかし祖母のする告白を聴き、上田保春の心へ何よりも先に浮かんだのは、「どこかで聞いたことのある、ありきたりのプロットだな」という、自分の体験してきた膨大な萌えゲーのシナリオと比較しての白けた感慨であった。次に生じたのは、妹、強姦、近親相姦という脳内へほとんど自動的に形成する現実の記号化から刺激を受けた、男性のかすかな勃起である。上田保春は脳内へ言語化された心の動きと股間の隆起に一瞬遅れて気づき、なめらかな表面を持ったその異形の正体に寒気を感じた。自分の全身全霊、自分の全存在の基調がそのまま、完膚無きまでに祖母の人生を侮辱していることを悟ったのである。萌えゲーおたくの存在は社会の枠外で永遠に保留されるべきである。例外的に観察を必要とする異常として、常に監視下に置かれるべきなのだ。彼は脳頂に石を打ちつけたいような思いに駆られる。しかし、まだ謎は残っていた。祖母はあのアダルトゲームのパッケージの何に、あそこまで激烈な反応を見せたのか。上田保春はおずおずとその疑問を口に出す。昔人の言葉でする、祖母の答えはこうだった。
 あのとき兄の瞳の中に見た私の姿が、はるかな時を経て、不義密通という言葉で非難されていることに動揺したのだ。本当に個人的な、自分の感情だけのことだった。それを腹いせに、あのときのお前には本当に悪いことをした。恨んでいるだろう。本当に、すまなかった……
 上田保春の足下に、巨大な空洞が開いた。
 ああ、なんてことだ! 自分の不幸は、萌えゲー愛好から来ているのではなかったのだ!
 脳内に閃光がひらめき、視界が星に似たまたたきに満ちる。突如、眼前へ縦横に無辺大の地平が開いた。そこには何の制約も無かった。思いこみは存在せず、あらゆる偏見は排除され、すべてが完全に明晰な思考の中にあった。萌えゲーおたくという、かつて自分が居た枠組みが見えた。しかしそれは、その内側から壁の隙間を通じて外をのぞく、あの馴染んだ外界の様相としてではなく、はるか上空より俯瞰した崩れかけの廃墟として視界に入ったのだった。上田保春は瞬間、すべてを理解した。人の持つ社会という制約は、この莫大な神を抑制するために存在したのだ。因習、慣習、文化、その名付けは何だって構わない、社会という拘束を失えば、人はたちまちその本来である神に到達してしまう。神に到達すれば、その究極の自由の中で悪魔のように人間を陵辱し、あるいは殺戮するしかない。人間が作り出す社会・文化の形態の本質は内なる神を抑制することであり、萌えゲーが例外的に特異なのではなく、あらゆる人の営為はこの同じ目的に苦闘するがゆえに、どれだけ相互に異なって見えようとも同朋であり盟友なのだった。かつて自分が馴染んだ廃墟を俯瞰する視点からさらに上空へと飛翔し、上田保春は彼にとって絶対無謬の価値基準であった萌えゲーが、人類の歴史の流れの中に相対化され、ぴったりと当てはまるのを見た。そして、かつて上田保春だった一個の孤独は、ずっとすべてとつながっていたことを知った。しかし、その理解は彼を安らわせはしなかった。なぜなら上田保春はいまやすべてのつながりから切り離された、それぞれが完全に重なるところを持たない神々のうちの一柱となったからだ。上田保春は真の孤独に戦慄した。彼は大きく振り返り、中空に投射された自分の姿をまざまざと見る。それはまるで人のようだったが、もはや人とは全く異なる本質を備えていた。皆が特別な存在でありたいと願い、この地獄へとたどりつくのか。上田保春の内なる神を抑制し続けていたのは、あらゆる社会規範が強度を失ってゆく中で、唯一残された萌えゲーだったのだ。そして、上田保春は巫女の託宣により、その最後の枷をさえ喪失させられた。周囲は完全な真空で視界は何にも疎外されることなく、あまねくすべての方向へ広がっていた。上田保春を制約するものは、何も存在しなかった。神である彼は今や、誰を殺すこともできた。上田保春は恐怖した。そのあまりに明確な変革の実感に、酔うよりも、驚くよりも、真っ先に恐怖したのである。自分はずっと、萌えゲーおたくという枷をはめ、それによって生を狭窄させることで、世界の真相を手に負える範囲に押しとどめることで、かろうじて存在を長らえてきたのだ。彼は少しも革命を喜ばなかった。思考と認識の完全な自由をすべて受け止めるのに、上田保春はあまりに弱すぎた。「人は自由の刑に処せられている」――その本当の意味での自由、神の享受する自由をいまや彼は持っていた。しかし、生物としての制約によって、神の自然の発露である殺戮と陵辱が完全な形で発現することを許されず、神と化した人間の精神はついには自重に耐えきれない巨大な恒星のように内へと圧壊するのだ。裸の自分が膝を抱えてすすり泣くイメージが見える。なぜ、私を萌えゲーの中へ放っておいてくれなかったのか。偽りも悪も存在しない世界の様相を直視させられるような、こんな暴虐に値する何を自分がしたというのか。無論、いらえは無かった。誰も神が発する問いに答えることはできないからである。涙はただ流れた。上田保春は、この世の底を垣間見たのだった。
 しかし、世界の色と輪郭が視界へ戻ってくると、その圧倒的な感覚は次第に消滅した。側頭葉てんかんが見せる神の幻影、あるいはその残滓だったのやも知れぬ。あの無限地平はどこかへ去り、薄暗い屋根裏の底で祖母がむせび泣いている。両手へ顔を埋めて、肩をふるわせ、愛しい人を得られずに泣く乙女のように、祖母が嗚咽を漏らしている。年月にすり減った薄い皮膚のすぐ下に、エメラルド色の静脈が走っているのが見えた。Worn out at Eternity’s gate、永遠の門を前に倦み果てて。人間に見る永遠とは何なのだろうか。それは不死ではない。それは死だ。死が生を規定する。突如、上田保春は知った。精神はきっと永遠を耐えられないだろう。透明な悲しみに促されて、彼は祖母の肩へと手を回そうとした。それは孫がするいたわりのようでなく、同じくこの生に倦み疲れた者としての共感を伝えるための抱擁となるはずだった。しかし、上田保春の指先がその肩に触れるか触れないかの瞬間、祖母は怪鳥のような悲鳴を上げた。そして上田保春の肩口を蹴りつけるようにして、いざり離れて行こうとする。わけもわからず追いすがろうとする上田保春が見た祖母の目には、深甚な恐怖だけがあった。祖母の意識を現実へとつないでいた細い小道が閉ざされ、彼女は今また彼女の罪の場所にいるのだ。決死で逃れることを試みようと、何度も何度も、祖母は兄との契り、彼女の罪の場所へと押し戻されてゆく。裁かれぬ魂の彷徨う煉獄、それがこの世界だった。神を罵倒しようとして、上田保春は気づく。神とは自分のことだ。創造は偶発的な自然発生を待つ他にはなく、破壊だけが神の意志を伴うことができる。祖母に救済が訪れることはない。上田保春は悲鳴をあげつづける祖母の両肩を激しく突いて押し倒し、その首を背後から片手で押さえつけた。親指と人差し指を回せばそれぞれの先端が触れてしまいそうなほど細い首。そう、破壊だけが意志を伴うことができる。知らぬうちに、祖母の生死を選択する分岐点に上田保春は立たされていた。手のひらの下に、血管が脈動しているのを感じる。祖母は泣きやみ、荒い息の下で裁きを待つようだ。薄く差す陽光の中に、細かな埃が舞うのが見える。だが、その永遠のような逡巡を破るように背後で階段のきしむ音がし、階下から悲鳴を聞きつけたのだろう母が上田保春の背中へするどい声をかける。弾かれるように手を離し、彼は呆然とその場に座り込む。額と腋下にびっしりと汗の粒が溜まっていた。駆け寄る母の胸に祖母はすがりつき、抱きとめられるまま少女のようにわあわあ声をあげて泣いた。祖母の薄くなった白い髪の毛をゆっくりと撫でながら、こちらを見た母の表情に一瞬、「まさか」という疑惑の色が浮かぶのを彼は見逃さなかった。みなが孤独な場所にいる。誰も誰かを理解することはできない。もしかするとそれは私たちがみな、一柱の神であるからなのか。全身を脱力感が包んでいる。上田保春は母が抱いたのだろう憶測へ、何か釈明を加える気力を持たなかった。
 二人に背を向けると、ゆっくりと階段を下りる。頬にはすでに涙が伝い落ちていた。萌えゲーおたくだった上田保春がずっと探し求めていたのは、無条件で自分を肯定してくれる場所だった。母の目の中によぎった、実の息子へ向ける明白な疑惑。それを見て、上田保春の中でずっと母につながっていた何かが、もやい綱のようにほどけた。おたくたちが我が身を人から遠く堕としてゆくのも、世界に対して無条件の肯定を問いかけるためなのかも知れぬ。肯定されたい。肯定されたい。私が音を発するただの肉塊であったとしても、あなたに肯定して欲しい。しかしそれは、隔絶された場所にいる人々の上へ与えられた回答のように思えた。その回答はいまや上田保春とは関係が無かった。庭に自生するほおずきの葉の裏側に、蝉の抜け殻が見える。先刻見たのと同じものであったにも関わらず、蝉の抜け殻はもはや完全に別の意味を備えていた。それはまるで、異星人の知覚を与えられたかのような抜本的な変化だった。上田保春は両手を持ち上げると、弱々しく顔をおおった。彼の人生においてこれまで起こった出来事のすべてが脱構築と再構築を繰り返し、いまやあまりにはっきりと意味を理解できた。だから、もうこの世界とは一秒たりとも触れあっていたくなかった。――少年に会いたい。上田保春は、切実にそう思った。自分の人生をずっと規定し続けていたものは、萌えゲーではなかった。萌えゲーという観点から自らを束縛し続けることで、おたくという名付けですべてとの関わりを説明づけることで、上田保春は人生がばらばらに分解しないようにこれまでを生き延びてきた。しかし、彼の苦しみは実のところそこからやって来るものではなかったのだ。萌えゲーを取り上げられ、この神の意識の内側で、自分はどう生きればいいのだろう。
 本当は、自分はどうありたいのだろう。